谷沢実行委員長の稲門祭へのメッセージ

第3回 野球界の未来のために
〜50歳で大学院入学。母校で教鞭も〜

(聞き手 広報サービス本部 渡邊幸生・清水克郎)

聞き手
―谷沢さんの大学時代及び早稲田の精神野球との出会いをお聞かせください―
谷沢実行委員長

大学院で勉強し直そうと思った契機は1993年のJリーグ発足でした。子供たちのサッカー熱が強くなって、野球界はサッカー界に凌駕される危機感をもちました。底辺を拡げていく必要性を感じました。プロ野球界では、1993年にフリーエージェント制度、2001年にドラフト制度改正など矢継ぎ早に手を打ちました。その結果、力と資格のある選手が大リーグに挑戦したり、自分の好きなチームを選べるようになった一方で、12球団に戦力のアンバランスが生じ、テレビの放映料等の差異で赤字体質となり経営が危機的状況になる球団がでることが予想されました。私はプロスポーツの歴史をたどってふりかえる意義があると考えたわけです。おりしも1998年に早大大学院にアジア太平洋研究科(GSAPS)が創設されました。私は50歳になっていましたが、この想いと友人に勧められたこともあり、挑戦して合格しました。

入学後は、筑波大学やマサチューセッツ工科大学などで教えているスポーツビジネスより広い視野で、プロスポーツの歴史について修士論文にまとめ修士号を取得しました。そして2003年にスポーツ科学部が創設されるとともに、その客員教授に招請されました。

講義は「現代スポーツ評論」で、プロスポーツ経営や地域とスポーツを研究しています。学生の中にはアジア・太平洋諸国からの留学生もおり、彼らのものの考え方は研究のプラスになります。卒業生にはスポーツビジネス、フロントマンとして海外で活躍している人もいます。最近はスポーツビジネスやスポーツ医科学、運動力学などに興味をもつ学生が多くなったと感じています。目的をもった学生を教えることは嬉しいことです。

また研究だけでなく、NPO法人“谷沢野球コミュニティ千葉”の理事長、関西東海独立リーグ・三重スリーアローでアドバイザーツーオーナーも務めて、野球界の底辺の拡大を実践しています。

聞き手
―最後に、谷沢さんのこれからのビジョンをお聞かせください―
谷沢実行委員長

野球部の先輩で生原昭宏さんという人がおられます。卒業後単身渡米し“アイク生原”という名前でロサンゼルス・ドジャーズでマイナーから修行して、ピーター・オマリーオーナーの補佐役になり、国際担当の球団幹部職員として27年間活躍しました。日米野球の“架け橋”として、日米大学野球選手権大会を実現させたり、アメリカへ行く日本の野球人の窓口となりました。特に、長島茂雄さんや王貞治さんとの密接な関係は有名です。野球がオリンピックの正式種目になることに尽力されましたが、1992年のバルセロナ・オリンピックで野球が正式種目となる直前に亡くなられました。ピーター・オマリー氏は、生原氏の功績を記念して5年前に生原氏の母校・早大に寄付講座を設けました(2009年終了)。

私は今年7月に訪米し、メジャーリーグやマイナーリーグでアイク生原氏の足跡をたどってきましたが、生原氏の生き方・野球人としての活動に改めて感銘すると共に、自分自身の行路の確認をした次第です。

―完―